産業技術遺産探訪 2001.8.12.
通潤橋
国指定重要文化財・1960(昭和35)年2月9日指定
高台地域へ灌漑(農業)用水を送るためにつくられたサイフォン式石造単アーチ水路橋
起工 1852(嘉永5)年12月
竣工 1854(嘉永7)年 7月
熊本県上益城郡矢部町
| 通潤橋の長さ 75.6m 通潤橋の幅 6.3m 通潤橋の高さ 20.2m(川の水面から橋中央下端までの高さ) 21.4m(川の水面から橋中央上端までの高さ) アーチの径 27.9m 石管(樋管)の長さ 126.9m 落差 1.68m 石垣面積 1860平方メートル 通水量 15000立方メートル(8万石)/1日 開田面積 約100町歩 通潤橋部分の轟川幅 18.2m 橋に使われている石材は阿蘇山の噴火によってできた「石質溶結凝灰岩」 工事費 通潤橋 官銀319貫406匁6分 夫役5865人 附帯用水路 官銀375貫401匁2分 夫役21213人 ※安政元年の米価は1石が91匁2分 |
周囲を轟川などの深い渓谷にかこまれた白糸地区は、台地であるために、水に乏しく、田んぼの水はもちろん、飲み水も足りないような状態でした。
当時、矢部の惣庄屋であった布田保之助(惟暉)は、この谷に目鑑橋(石造アーチ橋)を架け、その上に水路を敷設して北東約6km離れた笹原川の水を白糸台地に送ることを考えました。
布田保之助は、すでに1847(弘化4)年、篠原善兵衛によって緑川(轟川は緑川流域の支流)に架けられていた「霊台橋」(日本最大のスパンをもつ石造アーチ橋)を参考にして、設計をはじめましたが、谷の深さが30mあって、当時の目鑑橋(石造アーチ橋)の技術は20mの高さの築造が限度でした。そのため、橋の石組みは、橋の高さが幅の割に高いので、鞘石垣を設けて輪石の基礎部を包み補強して橋脚部を広げ、28カ所に鎖石工法が使用され、熊本城の石垣同様に反りを拡げた石垣工法で安定感を出すことにしました。また橋より高い白糸台地に連通管(サイフォン)の原理を応用して水を送るための実験や、通水路の実験(実験用の石管が笹原川上流に残存)も何度も行い研究を積み重ねていきました。
建設を進めたのは、布田保之助、工事を担当したのは八代の種山村(現在の熊本県八代郡東陽村)の宇一(卯市?)、丈八(宇一の弟で、のちの橋本勘五郎)、その他に甚平ら「肥後の石工(種山石工)」と呼ばれる名工たちでした。石材は、川の両岸や川床から採石(「石質溶結凝灰岩」)して加工されました。工事は嘉永5(1852)年12月に着工し、安政元(1854)年7月、1年8ヶ月という短期間のうちに完成しました。
この工事の完成により、白糸台地に百ヘクタールの水田を開くことができました。
※種山石工・・・江戸末期から明治・大正にかけて驚異的な土木・建築技術を持った石工の集団「種山石工」が八代の種山村(現在の熊本県八代郡東陽村)に存在していました。その中心となったのは、長崎でオランダ人からアーチ橋のかけ方や円周率を学んだといわれている藤原林七、土木事業全般に優れた技術を持ち神業といわれた岩永三五郎、通潤橋や皇居の旧・二重橋を手がけた橋本勘五郎などを輩出しました。種山石工たちの高度な石組み技術によって各地に石造アーチ橋(目鑑橋)がつくられ、さらに灌漑・干拓事業に活躍しました。熊本県八代郡東陽村の鍛冶屋谷を中心とした22の石橋群や、熊本県下益城郡緑川流域の66にも及ぶ石造アーチ橋(砥用町・21橋、矢部町・20橋、中央町・6橋、豊野村・6橋、甲佐町・5橋、御船町・4橋)は、1世紀以上の風雪に耐えて現存し、日本の石造橋文化圏を生み出しました。
※種山石工に関する史料館「東陽村石匠館」(熊本県八代郡東陽村大字北98−2)
| 通潤橋上には3列の通水石管が敷設されています。 | |
| 取水口側から白石台地側を見た通潤橋上部 の通水石管 |
白糸台地側から見た通潤橋上部の通水石管 |
| 通水管の高低差 橋より高い白糸台地に連通管(サイフォン)の原理を応用して水を送る構造になっています。 ・取入口−放水口(橋の中央) 7.5m ・放水口(橋の中央)−吹上口 5.8m ・取入口−吹上口 1.7m |
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| 通水管 | ||
| 通水木管(木樋) | 通水石管(石樋) | |
| 木管の通水口は30cm角で、長さ約55cm 通水管の中央部分に使われている。緩衝の 役割をもたせるためと考えられる。 |
石管の通水口は30cm角で、石管断面は90cm角、長さ50〜80cm 石の厚みは場所により異なる。方二尺より方三尺まで。 |
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| 目地として漆喰が詰められ通水管どうしが連結されている。 | ||
笹原堰(水源地)
Q(流量) 1.29立方メートル/s(秒)
L(距離) 16.50m
H(高さ) 2.00m
円形分水池
Q(流量) 1.102立方メートル/s(秒)
水槽径 6.27m
※笹原川から流れる水を野尻、笹原部落へ流れる灌漑水と白糸台地に流れる灌漑水にその水量を分水するために、水田の面積に応じてそれぞれ3:7の割合で公平に流れるように作られたものである。
通潤橋
Q(流量) 0.856立方メートル/s(秒)
サイフォン コンクリート管 800mm
L(距離) 139.6m
| 通潤橋の由来 架橋当時は「吹上台目鑑橋」と称していましたが 肥後藩時代に時習館の句読師真野源之助により、 易経の程氏伝にある 「沢在山下其気上通、潤及草木百物」 から採って名づけられました。 |
| 取水口側 |
| 吹上口側 |
| 通潤橋の保存修理について |
| 昭和46年 矢部町教育委員会によって保存修理(送水管の目地の修理や木管の交換)が行われた。 |
| 調査工事 昭和57年7月1日〜昭和57年12月30日 部分修理工事 昭和58年4月1日〜昭和58年12月30日 総事業費 2010万円 財源内訳 1306万5000円 国庫補助金 201万円 熊本県補助額 502万5000円 矢部町負担額 事業者 矢部町 設計監理 財団法人・文化財建造物保存技術協会 修理の大要 1.水路石管(3列)の測定をして、各石管に番号をつけ、目地119本の漆喰詰替と、松丸太3本を取り替える。石管と松丸太の接着面には、樹脂エマルジョンにガラスマイクロバルーンを用いた。 2.取入口の目地漆喰の取り替え。 3.吹上口周囲の積石は共に解体して、旧来の通り据え戻し、目地漆喰を取り替える。なお、排水口の石管や石垣の積替を行う。 |
| 通潤橋の送水管の水漏れがひどくなってきたため、熊本県は平成12年度から、その歴史的価値をふまえて通潤橋を保全し、今後も農業用施設として活用していくために、(歴史的施設保全型)地域用水環境整備事業で、送水管の目地の修理等を行っている。 |
布田保之助は、江戸時代末期の享和元(1801)年11月26日、浜町にある矢部手永惣庄屋の屋敷で生まれました。
布田家は、寛政元(1789)年、祖父、桂右衛門が矢部の惣庄屋に転勤以来、代々矢部惣庄屋を勤めた家柄でありました。
父、布田市平次は、17才で惣庄屋代役となり、、保之助が生まれる頃は矢部惣の地図を作成することに努力しています。31才で惣庄屋となった市平次は、代役のころ作成した地図をもとに矢部郷の開発と民生安定のため日夜努力していましたが、36才でこの世を去ってしまいます。保之助が8才のときでした。
文化13(1816)年、保之助はは元服して惟暉と名のるようになります。
文政5(1822)年、21才となった保之助は、叔父太郎右衛門の下で惣庄屋代役として勤務することになりました。
「布田保之助 事業年代表」によると、惣庄屋在任中の約30年間に実施した主な事業は、
道路新設 110km、用水溜池建設 7カ所、道路改善 95km、用水路建設 200km、目鑑橋架橋 14カ所、石堰き 35カ所
などが記録されていますが、このような土木、利水事業にとどまらず、植林、茶、はぜ、養蚕の振興など常に民力の涵養に務め、矢部76ヵ村、保之助の恩恵を受けない村はなかったといわれています。
| 放水口 |
| アーチ橋の中央側面に放水口があります。 放水口は西側(轟川の上流側)に2口、東側(轟川の 下流側)に1口あり、通水石管の管底に堆積した泥を排出 するために行うものです。放水口が3口あるのは、放水に 伴う水圧の衝撃を緩和するための工夫で、両側の放水口 を順次交互に開閉していくためのものです。 |
| 通潤橋の放水について 通潤橋は農業用水路橋で現在も白糸大地の農家の 人たちが使用し、管理しています。常時放水は行って いませんが、予約があれば農業に支障がない限り、 通潤地区土地改良区によって放水を行うことがあります。 放水料は1回 5000円です。 なお、田植え時期など「水田に水が必要な時」「水路の 改修工事の時」などの事情で放水できないこともあります。 ※2001年8月12日現在、補修工事中です。 |